(2) チェ・ゲバラ
あるいはフィデル・カストロ以上に有名か?キューバ革命の元勲の一人チェ・ゲバラはもともとアルゼンチン人。だが諸般の経緯でカストロらと関係を持つようになり、革命闘争時には司令官として活躍した。キューバでは今でも英雄であるし、中南米での人気も高い。
本名エルネスト・ゲバラ。チェとは彼の母国アルゼンチンで人を呼ぶときにチェ(ねぇ君)と呼ぶことからつけられたあだ名。ゲバラ本人が人に話しかけるときによくこう言っていたそうで、それが逆にあだ名になった。
(4) アーネスト・ヘミングウェイ
● ゲバラ略歴
1928 アルゼンチンのロサリオに生まれる
1947 ブエノスアイレス医科大に入学
1953 医科大卒業、当時ベロン独裁政権下であった母国に嫌気がさし、半亡命の形で南米放浪する
1954 メキシコに渡る。
1955 カストロらに会う
1956 カストロらと共にキューバに渡りゲリラ戦開始
1959 キューバ革命、以後政府の要職を歴任する
1965 キューバを去りアフリカ、コンゴにてゲリラ戦開始
1967 ボリビアにてゲリラ活動中捉えられ射殺
もともと彼はアルゼンチンの比較的裕福な家庭に生まれ医大を卒業したれっきとした医者であり、考古学を愛する勉強好きな青年だった。非常な秀才で、学生時代の彼の優秀さを裏付けるいくつかの逸話も残ってる。大学卒業後、友達とバイクに乗って南米放浪の旅に出、途中ペルーではハンセン氏病療養所でボランティアの仕事を体験。またマチュピチュ遺跡に感動し、考古学に対する興味を深めていった(この時の記録は本になって出版されている)。

ところが育ちの良さが災いしたのか非常にナイーブで純粋な一面を持っていたようで、たまたま立ち寄ったグアテマラのアルベンス政権が大国(アメリカ)の干渉によって崩壊するのを目の当たりにしたあたりから、だんだん中南米の抱える現実から目をそむけることができなくなった。

メキシコで医者の仕事についた彼は、フィデル・カストロと運命的な出会いをする。と言っても、当初、彼持ち前の冷静な分析力を通して見たフィデルは無計画な夢想家でしか無かったそうだ。だが、その理想に燃える姿に次第に共感し、いつしか彼はフィデルの志に引き込まれていった。

革命後は国家の要職を歴任するが、徹底した平等主義の持ち主で、自身も非常に寡欲、全てを国のためにささげていた。大国にかみつく一方で、農民や南米のネイティブにはとても優しかったという。非常な勉強家で、誰よりも長く働き、仕事後も勉強をかかさなかった。そのような生活態度から、キューバ人で無いにもかかわらず、キューバ国民の人気も絶大であったようだ。

しかし、上手くはいかないものだ。革命後、キューバを守るためにソビエト接近という現実路線をとったカストロと、ソビエトもアメリカと同様の悪魔にしか見えないゲバラとの間には次第に溝が出来、65年ついにカストロ宛の置手紙を残し、新たな戦場を求めて旅立ってしまう。その後アフリカ、コンゴで反乱軍に参加するが、国民性の違いか、思うようにいかず惨敗。体を壊して(もともと喘息の発作の持病があった)一度キューバに舞い戻った後、今度は自らの故郷にも近いボリビアに戦いの場を求めた。一時はボリビア政府軍を翻弄していたゲバラ達ゲリラはしかし、アメリカのグリーンベレーの指導を受けたボリビア軍の反撃にあい次第に追い詰められていく。1967年10月8日、政府軍に包囲されたゲバラ達は果敢に戦ったもののついに捕らえられ、翌日この自称「20世紀のちっぽけな冒険戦士」は39年の生涯を終えた。

悲しいぐらいに純粋な人だったのだと思う。彼の思想やゲリラ活動が、たとえば野蛮であるとか非道であるとか言って片付けることはたやすいし、それも間違った批判ではないだろう。だが、歴史上、一度革命で地位を得た者が再びその地位を捨て野に下ったことは絶無であり、彼はそれをやったほとんど唯一の人間である。彼にとっては国という概念よりも人間の自由の方が大事であったし、その自由を勝ち取るためには武力闘争しかないという信念を生涯持ち続け、そしてそれを実行した。その真摯な態度が、国や思想を超えて、現在でも人々の心を揺り動かすのだろう。

彼の遺骨は97年、死後30年経ってようやくボリビア政府からキューバ政府に返還された。キューバのみならず中南米においては今でも彼は英雄であり続けている。
(3) ホセ・マルティ
   
キューバは一般的に社会主義国家と言われるけど、識人の間ではこういわれる。「キューバは社会主義国家ではない。カストロはアメリカに対抗するための方策として社会主義を標榜してきただけで、もともとそんなものに興味は無いのだ。彼がほんとうに信奉しているのはホセ・マルティ主義だけだ」と。

ホセ・マルティは1853年、ハバナで生まれ。第一次独立戦争の最中、17歳のときにスペイン当局から禁固刑を受けピノス島流刑となる。その後スペインに渡ってマドリード大学で学問を修め、フランス、メキシコ、グアテマラ滞在を経て思想家、文学家として認められるようになる。

1878年、キューバに戻り祖国独立運動を展開するものの、スペイン当局から追放される。その後ニューヨークに渡り見聞を深める。後、祖国に戻り「キューバ革命党」を結党、この団体が母体となり、1895年、第二次独立戦争がはじまる。しかし戦い序盤にして敵弾に散る。

行動もマルチなら才能もマルチ。革命家という以外にもジャーナリスト、思想家、教育家などさまざまな顔を持つ。スペイン、フランス、アメリカ、メキシコ、ベネズエラ、グアテマラ等滞在した国もかなりの数で、行った先それぞれで何かしら意義のある仕事をやっている。正直とても追いきれない。凡人は「何だか知らんがすごい」と言うにとどめます。
この流れで小説家を紹介するというのなら、むしろガルシア・マルケスの方がふさわしいのかもしれない。なんと言ってもカストロとは料理のレシピを交換するぐらい仲が良いのだから。でも残念ながらよく知らない(一冊しか読んだことが無い)。それに日本人になじみの深いのやはりこちらの方でしょう。

ヘミングウェイは今更言うまでも無く、世界的に有名な小説家だし、「老人と海」はかなりの人が読んだことあるのでは?彼がキューバにかかわるようになったのは、1928年のこと。このときはたまたま立ち寄っただけだったらしいけど、それ以来彼はすっかりこの地に魅せられてしまった。
足しげく通うようになったキューバの常宿が、ハバナ市内のアンボス・ムンドスで、彼はここで「誰がために鐘は鳴る」を書き上げた。そしてこの作品の売上で1940年、ハバナの郊外に「フィンカ・ビビア」という名の居を構えた。シドは行かなかったけど、丘まるごとといった大邸宅だそうだ。その邸宅でキューバ革命のあった翌年1960年までをすごし、52年には「老人と海」を出版。大ヒットとなり54年にはノーベル文学書受賞。その後健康を害し(内臓疾患や精神)革命の翌年(60年)一時亡命という形でアメリカに帰国。その翌年猟銃で自殺した

さすがにキューバを愛していただけあって、彼はフィデルとも親交があったし、また革命政府も彼のさまざまな遺産を大切に保存しているので、現在は博物館になっている彼の邸宅や「老人と海」の舞台になったコヒマル、常宿にしていたホテル・アンボス・ムンドスに頻繁に通っていた「ラ・ボテギータ・デル・メディオ」「ラ・フロリディータ」などで容易に足跡をたどることができる。

シドは飲めないからしょうがないけど、ハバナに行ったら、「フロリディータ」でパパ・ダブル」と言う名のヘミングウェイが愛した「つよ〜いダイキリ」をいただくのはお約束らしい。やっぱ酒は飲めた方がいいな。
ヘミングウェイが愛したホテル「アンボス・ムンドス」からの風景


キューバ
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