でっかいシェーンブルン宮殿
宮殿内ネプチューンの泉
5.ハプスブルク家とオーストリアの歴史
  オーストリアおよびウィーン ハプスブルク家
紀元前 紀元前後


ローマ帝国がケルト族に侵攻し、防衛拠点の1つを現在のウィーンのあたりに築く。 この頃ハプスブルグ家は影も形も無い
〜12世紀 976

996
1192
神聖ローマ帝国皇帝、オーストリア地方の領有権をバーベンベルク家に与える。
オーストリア公国としてスタート
イングランドのリチャード王デュルンシュタイン城に幽閉→翌年開放
10世紀ごろスイス北東部のアールガウ地方(チューリヒの近く)から起こってきたらしい
13世紀 







1282









ハプスブルク家オーストリアを領有


1273


1278


1282


超ラッキー男ルドルフ・フォン・ハプスブルクが神聖ローマ皇帝に選出される。


戦上手でもあったルドルフがボヘミア王を破る

オーストリア一帯の領土を獲得。以後1918年までハプスブルク家のオーストリア支配。
14世紀  1347

1359

1365

ペスト大流行、その後1679年まで何度か大流行。
シュテファン寺院建築開始

ウィーン大学創立。



1363



チロルを領土に加える
15世紀 




1498





マクシミリアン、ウィーン少年合唱団創設


1493
1496



マクシミリアン1世、神聖ローマ皇帝に
フィリップ王子とスペインの皇女フワナの婚姻。後カルロス(五世)が生まれる。
16世紀 


1529


1569





スレイマン一世率いるオスマン・トルコがウィーンを包囲。

シェーンブルン宮殿建築の始まり。完工はマリア・テレジアの時代

1517

 

 



1571
カルロス五世、スペイン王に(スペインの黄金時代)その後神聖ローマ皇帝に即位。






カルロス五世、レバント沖の海戦でオスマン・トルコを撃破
17世紀  1618



1648

1683
1685
1697
1699
三十年戦争、ティリ辺境伯、傭兵隊長ヴァレンシュタイン活躍


ウェストファリャ条約締結、三十年戦争終わる。
オスマン・トルコ再びウィーン包囲
ウィーンに最初のカフェできる
オイゲン公トルコ軍を撃破
カルロビッツの和約によりトルコ戦が終了
1618


1648
 
 
 
 
 

1700

三十年戦争開始、中身はブルボン対ハプスブルク色強し、ハプスブルク包囲網。


条約締結とともにハプスブルクの弱体化はじまる





スペイン、ハプスブルク家断絶

18世紀  1740

1756


プロイセン、シレジア地方を占領し、オーストリア継承戦争開始
仏・墺・露同盟成立、対プロイセン7年戦争開始



1740



1770

1793
マリア・テレジア即位、外交を駆使しプロイセンに対抗


マリア・テレジアの末娘マリー・アントワネット、ルイ16世と婚姻
マリー・アントワネット処刑される
19世紀  1805

1814

1842
1848
1866
1867
1873
ナポレオンがウィーン攻略

ウィーン会議、ナポレオン以後のヨーロッパを決定
ウィーン・フィル創設
3月革命、10月革命
晋墺戦争、オーストリア敗れる
オーストリア・ハンガリー帝国成立
ウィーン万国博覧会

1810



1848



1889

1898

マリー・ルイーズ、ナポレオンと結婚



フランツ・ヨーゼフ1世即位



マイヤーリンク事件、皇太子ルドルフ自殺

皇后エリザベート暗殺される
20世紀  1914
 
 
 
 
 
1918
1919


1938
1945



1955
1961

1995

セルビアに宣戦布告、第一次世界大戦開始




降伏
サン・ジェルマン条約


ナチス・ドイツに併合される
対戦終了、英、米、仏、ソによる共同占領(「第三の男」はこの時代に撮影)


永世中立国として主権回復
ケネディ・フルシチョフ会談ウィーンで開催
EU加盟
1914

1916


1918
1919
1922
サラエボ事件、皇太子フェルディナント夫妻、、サラエボで暗殺される

フランツ・ヨーゼフ1世死去、カール1世即位

カール1世退位
ハプスブルク帝国の解体
カール一世死去


         シェーンブルン宮殿
ハプスブルク家について

ヨーロッパ一の家柄で1000年も続いた名家・・・だというのに、なんか今ひとつぴんと来ない。普通はあるはずの大きな戦勝の記録はほとんど無いし、中興の祖ルドルフを除いて名将もあんまりいないし、なんだかしらないうちに家が大きくなって、気がついたらヨーロッパ一の名家という、不思議な家。もっとも政略結婚と忍耐力にかけては右に出るものは無く、ここ一番のときにライバルが死んでくれて領地が転がり込んでくるという、死神も真っ青の恐るべき能力は有名。中でもマクシミリアン王の父君フリードリヒ5世はほとんど神の領域であったそうな。

中興の祖ルドルフが13世紀に神聖ローマ帝国皇帝に選出されたのはひょんなことから。次代のローマ皇帝を選出にあたって、決定権を持つ7選帝侯の勢力が拮抗して、互いに牽制しあっていたために、なるべく自分たちの邪魔にならない弱小貴族の中からハプスブルクのルドルフを選んだだけ。ただ、このルドルフ、歴代ハプスブルク王には珍しい戦上手であり、ボヘミア王オットカールU世との天下分け目合戦に戦前の予想を覆して勝利。ヨーロッパの地にハプスブルクの名を植え付けることに成功。

その後、しばらく神聖ローマ帝国皇帝の地位も失い、地盤強化に努める日々が続くが、フリードリヒ5世の代に再びその地位を偶然ゲット(在位1452-1493)。ついでにその「死神」能力をいかんなく発揮。凡庸の塊のような人が長生きしただけで後の大繁栄の基礎を作る。その後、息子のマクシミリアン大帝に続き、その孫にあたるカルロス5世がハプスブルクの勢力を名実ともに最大のものにおしあげる。カルロス5世はスペイン王家とハプスブルク家の間にできた子であり、何もしなくてもスペイン王や神聖ローマ帝国皇帝、ハプスブルクの総帥としての地位をゲット。15世紀〜16世紀にかけて、陽の沈むことのない大帝国を作り上げた。ただ、ものすごい戦好きで、国庫はいつも貧乏でぴーぴー。後の衰退の基礎を作ったと言えなくも無い。

カルロス5世の頃、最大の敵はヨーロッパ諸国では無かった。この頃もっと手ごわい敵がいた。オスマン・トルコである。この異教徒たちは名将スレイマン1世(1496-1566)の指揮下急速に勢力を拡張。この人ヨハネ騎士団との激闘でも有名だが、東ヨーロッパではハプスブルクのお膝元ハンガリーまで制圧した後、遂にはウィーンを包囲してしまう。このときは守備兵のがんばりと冬将軍の到来で何とか撃退に成功。30年戦争の後にはもう一度包囲をくらっているが、トルコ自体がすでに下り坂であり、ポーランドの援軍とヴェルヴェデーレ宮の主として有名なオイゲン公(なぜかフランス人)の活躍などで撃退のみならずハンガリーからの駆逐にも成功。オスマン・トルコの脅威を完全に封じることに成功した。

カルロス5世の後、30年戦争が勃発。カトリック(ハプスブルク)対プロテスタントの対決は当初、ティリ辺境伯やヴァレンシュタインが活躍して優勢だったものの、何度かの戦役のうちスウェーデンやデンマークの参戦もあって次第に劣勢に追い込まれ、最終的にはウェストファリャ条約においてスペイン支配権を宿敵フランス、ブルボン家に譲ることになる。このあたりから次第に衰退の兆しが見え始める。

マリア・テレジアは父親のカール6世に男の世継ぎがいなかったため、お鉢が周ってきた人。「女帝」の異名を持っているが、「神聖ローマ皇帝」になったのはだんなのロードリンゲン公フランツで、自身はハンガリー女王、ボヘミア女王になっているものの帝位にはついていない。この頃の宿敵は新興国プロイセンのフリードリヒU世で、この軍事力に秀でた女性蔑視の王はマリアを認めず、マリア即位とほぼ同時にシレジア地方を占拠。対するマリアは宿敵相手に外交力を駆使し、フランス,ロシアと手を結んで対抗。傷み分けに持ち込んだ。ちなみにこの人16人もの子供を産んだが、その末娘はかのマリー・アントワネットである。

マリア・テレジアの後はナポレオンの時代である。ヨーロッパの地図を塗り替えてしまい、ハプスブルク家もウィーンを攻略されたり、神聖ローマ帝国の息の根を止められたりとかなり痛い目にあっている。が、ここでもお家芸の外交は健在、宰相メッテルニヒの活躍もあって、ナポレオンの妻にマリー・ルイーズを送りこみ、その一方で対フランス連合へ参加。ナポレオン失脚後はウィーン会議を主催して、すでにかなり傾いていたハプスブルク家の影響力維持に努める。ちなみに、出る杭は打たれるメッテルニヒは、権力を持ちすぎて後にきっちり失脚する。

900年のハプスブルクの事実上の幕引きを勤めたのはフランツ・ヨーゼフ1世で、その風貌や質実剛健な生活態度で国民の人気を得ていたものの、外交、軍事面では無能を絵に描いたような頑固ジジィであり、その長い在位期間(1848-1916)の重要局面でことごとく舵取りに失敗し、ついには第一次世界大戦を引き起こし、ハプスブルク家を解体に導いた人である。

きわめて容易に想像できると思うが、フランスのブルボン家は宿命のライバル。だが、ブルボン家側からは山奥の田舎者とバカにされていたらしい。常にハプスブルクと一心同体であったオーストリアという国家は、ハプスブルク解体後すっかり往時の勢いを失い、国土も北海道ぐらいの小国に転落、遂にはナチス=ドイツに併合されてそのまま第二次世界大戦に突入してしまう。結局良くも悪くもハプスブルク=オーストリアだったわけである。

ちなみにハプスブルク家の血筋にあたる人は現在もちゃんと生きている。オーストリア王家復活を望んでやまないそうである。

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